セカンドキャリア

League

 

 
 
 
 
資格取得支援
◎柔道整復師資格取得支援
選手現役中に、引退後のセカンドキャリアのサポートを行うことを目的に、柔道整復師資格を目指して、入学金や授業料を支援。
支援期間:2010年〜2014年(5年間)

◎教員免許取得支援
選手現役中に、引退後のセカンドキャリアのサポートを行うことを目的に、教員免許取得を支援。
開始期間:2015年以降(星槎大学と連携を図り、入学金免除など選手の教員免許資格取得をサポート)
スタッフ・指導者・その他
スタッフ
 
メディアと選手たちをつなぎ、さらにはSNSなどでリーグの魅力を発信と、奮闘しているのが岩田きくさんだ。
選手として5年間活躍、その経験を生かし、女子野球発展の一翼を担っている。  
  2018年のシーズン終了間際、引退を申し入れた。プロ生活5年。新しい選手がどんどん入ってくる中で、不動のレギュラー、という位置にはたどり着けなかった。
明確なイメージはなかったが、引退を機に女子プロ野球の世界からは離れるつもりだった。
しかし、引退申し入れの際に、スタッフとしての就職を打診された。「私にできることはあまりないな」と思った一方、夢を追いかけ飛び込んだ世界で5年間、世話にもなった。
「恩返しというか、力になれたら」と、引き受けることにした。ただ、断り切れずに手伝うというレベルであれば引き受けなかった、というより、引き受けられなかっただろう。相当な覚悟が必要だった。
家庭の都合で、新生活の拠点を三重県に置くことは決めていた。そこから毎日、2時間以上の通勤時間をかけて京都市内の試合会場やオフィスに通う。「ちょっと手伝う」ような気持ちで続くようなものではない。それでも、「やろう」と決めた仕事だ。
業務は、各メディアと女子プロ野球とをつなげる広報活動や、女子プロ野球の魅力を伝えるためのSNS発信など。デスクワークもある。試合となれば、両軍のベンチを行ったり来たりしながら、リアルタイムの動画を撮影し、SNSにアップする。活躍した選手の、生の声を拾う。選手たちも、一緒に戦った仲間だからこそ、岩田さんには心を開き、素顔を披露してくれる。
特にSNSでは、それに対するコメント、リツイートの内容や量が岩田さんの励みにもなっていて、「こういう記事だと、たくさんの人に見てもらうことができるんだ」といった気づきもある。「反応が、やっていて楽しいですね」。やりがいも感じ始めた。
自らの通ってきた道があり、今の仕事の先にも通じている。
「私の中学時代には、女子硬式野球部がある高校は全国で5校。それが今は38校です。数だけではなく、レベルもすごく上がってる。今入団テスト受けたら、私、通らないだろうなって思うくらいです」
実感する女子野球の発展。この流れを、加速させたい。そのキーワードが、自身が選手時代に大きな悔いを残した「全力」だ。
選手たちの魅力を伝えたい。選手たちに、もっともっと輝いてもらいたい。全力で頑張れ、と現役選手にエールを送る。一方で、自分も、だ。ナイターが終わり、インタビュー撮影が終わる。それをファンの目に届けるためには、帰宅途中の電車内すら仕事場として、SNSのアップ作業に取り組む。絶対に手を抜くもんか、の気概が伝わってくる。
今や、女子プロ野球を支える、堂々としたレギュラーだ。
学生野球部
  
女子プロ野球1期生で、6年間、第一線で活躍した小久保志乃さんは今、
岐阜第一高校保健体育の教諭として、女子硬式野球部の監督として、新たなグラウンドを全力で駆けている。
2015年、さらなる発展を願い、引退を決意する。そこへ舞い込んで来たのが岐阜第一高校教諭、そして女子硬式野球部監督だ。
半年後には新年度を迎えるという10月から準備を始め、同校女子野球部1期生は11人の生徒が来てくれた。これは各大会に出場できる最低人数でもある。もちろん「勝てない。怒りっぱなしでした」と小久保さん。
また保健体育の授業でも、野球部においても「伝えるという作業がすごく難しいですね。言葉を選んで理解度を確認する。知ってて当たり前でしょう、は通用しないんです。 万人に分かる説明をするスキルが、私にはまだ足りない」と、新米先生としての未熟な部分を痛感することも多々ある。
ただ、昨今の女子高生を「わがままで扱いづらいかな?」と想像していたことから比べると「全然楽しいし『日本一になりたい』という、一緒の方向を目指して、同じ気持ちでいられる」と、予想以上にやりがいを感じている。
野球が好きで、プレーヤーとして活躍もし、プロというトップレベルも経験した。それでも小久保さんは「今の方が、楽しいかもしれませんね」とまで言う。
目標は、日本一。春のセンバツでベスト8なら、全国選手権の道が開ける。夏の大会でベスト4なら、ジャパンカップが射程に入る。つまり年に4度、日本一を目指すことができると、生徒たちの尻をたたく。
一方で、やはり女子硬式野球の発展、国体種目になるくらいは、絶対にできると信じている。善行を積めば、その運も巡ってくるだろう。
目の前の仕事も、将来の展望も、小久保さんはぶれない。
同時に「碧(田中碧)のところ(叡明)には負けられない」と、やっぱり“やかましい指導者”であることもやめるつもりはない。
とても魅力的なキャラクターが、女子高校野球に心地よい風を吹かせそうだ。   
 
  
女子プロ野球選手1期生として活躍した田中碧さんは今、
未来の女子プロ野球選手たちと日々、汗を流している―。   
   叡明高校女子硬式野球部を率いる田中碧さんは『埼玉栄高校時代』から「ある夢」を抱いていたという。
現役引退後も、「将来は高校に女子硬式野球部を創る」という夢は消えていなかった。恩師である齋藤監督に引退報告をした。すると、予期せぬ提案を受けることになった。「小松原高校が、再来年の年から共学化するらしい。」
とんとん拍子で話は進み、14年は男子校である小松原高校の非常勤職員として国語の授業を受けもつことになった。
校長先生に「来年の共学化に向けて女子硬式野球部を創りたい」と直訴したところ、好感触を得た。
「校長先生に、女子硬式野球部を創部することで生徒が多く集まる可能性があること、野球を通じて規律を学べることなどをご説明しました。すると想像以上に好感触で、14年の暮れには体験会を実施できました」 こうして田中さんは叡明高校(旧・小松原高校)の常勤教師となり、その後新設されたばかりの女子硬式野球部初代監督となった。それは、高校時代から描いていた夢が現実になった瞬間だった。
そんな田中さんに「監督としての楽しさ、大変さ」を尋ねてみた。
「楽しいところは大好きな野球を生徒たちと一緒にできること。大変なことは結果が出ない、勝てないことかな(笑)」
アマチュア時代には全国有数の右腕として鳴らしたものの、プロでは思うような結果を残せなかった。
あらためて、4年間のプロ生活を田中さんが振り返る。「自分がプロ選手だったという実感はあまりないですね。でも、あの4年間で多くのことを学びました。あの4年間がなければ、今のようにはなっていなかったと思います。生徒たちや野球との関わり方も、今とは違っていたでしょうね」
ひと言、ひと言、噛み締めるように田中さんは言う。
「大学を出てすぐに教員にならずに、一度、社会に出て他の世界を見たことも貴重な体験でした。おかげで、人間関係も大きく広がったし、考え方の引き出しも増えました。現役選手としての悔いは残っているけど、プロに進んだことについては何も悔いはありません」
  
難関をくぐり抜けて女子プロ野球の世界に身を投じたが、その夢はわずか2年で終わってしまう。
悔いが残るその2年の経験を、次の世代の選手を育てる糧にしている。
これからその夢のバトンを、どう渡していくのだろうか。   
   2年目のシーズンが終わった直後。球団事務所に呼ばれて、無情の通告を受けた。
「選手としてプレーできないのであれば、もう辞めよう」。決めたらすぐに行動に移すのが、昔からの性分。そこは変わらなかった。
在籍年数はわずか2年。
足の骨折や指の脱臼など度重なるケガにも泣かされた。たった2年間のプロ野球人生の中でも、絶対に野球に対する情熱だけは、誰にも負けないと思っていた。
だからこそ、選手としてプレーできないのであれば、潔く身を引く気持ちになったのかもしれない。 すぐに、故郷の広島へ戻る準備を始めた野々村さん。柔道整復師の資格を取るために通っていた専門学校も退学しようと手続きに行くと、職員からこう言われたという。
「今学校を辞めるのはもったいない。残り1年半、きちんと学校に通ったら、あなたなら柔道整復師の資格を取得できる」。
そう言われ、地元・広島で通える学校のリストを手渡された。これまでの真面目さを、周囲が認めていたからこその配慮だった。
野々村さんはその優しさを受け入れ、両親に「もう1年半だけ学校に通わせてほしい」とお願いし、すぐにリストの一番上に記されていた学校に電話をした。
リストの一番上にあったMSH医療専門学校に挨拶に出向き、編入をお願いした。すると思いがけない言葉が返ってきた。
「近い将来、うちの学校に女子野球部ができる予定です。うちの学校に入って、監督としてチームを引っ張っていってほしい」。
予期せぬ言葉に驚きながらも、こう感じた。
「人生は全てタイミング。このタイミングでいただいた話、思い切って乗ってみよう」
通常、専門学校への編入は4月だが、野々村さんは年度途中の1月からの編入が認められた。
当時、MSH医療専門学校には男子の野球部と女子のソフトボール部しかなく、女子野球部はまだ影も形もない状況。野々村さんは、監督就任についてはチームとしての形が見えてきた段階で、あらためて学校側と相談することを前提に編入。 はじめはコーチからでいいです、と話をしたんですけど、いずれは監督になる訳だから、途中で立場を代えるよりは、最初から監督でお願いしますと言われました」
学校側は指導経験のない彼女のために、広島商業や堀越高校を率いて甲子園出場の経験がある桑原秀範さんを総監督に迎え、野々村さんが監督としてのイロハを学べるよう環境を整えた。
実の親とほぼ変わらない年齢であり、選手から見ればほぼ祖父と孫にあたる年齢差の桑原さん。当初は、それぞれが意見を主張し衝突することもあったというが、だんだんと、総監督の桑原さん、そして監督の野々村さん、選手たちの関係がうまくまとまるようになっていった。
指導者になって、7年目を迎えた現在。野々村さんは、午前中は専科教員として授業をした後、午後からは車で西方面へ1時間ほど移動した大竹市のグラウンドで監督として指導にあたり、毎年行われる全国大会に向けて、練習を積み重ねている。
試合のない週末は、翌年以降のチーム編成のためにスカウト業にも取り組んでいるそうだ。
監督としてのキャリアを積み重ねる中で、やりがいを感じられることも増えた。
「勝つために、どんな選手を補強すればいいのかを考えて、チームを作り上げていく。練習をして、ひとつのチームになって勝っていけたらうれしいし、選手時代とは違う楽しさがありますね」
小学生の頃、両親の影響を受けて体育の先生になりたいと思っていた少女が、野球と出会い、夢でもあった女子プロ野球の選手になった。
プロ生活こそ長くはなかったが、散ってしまった夢のその先には、もっと大きな人生のやりがいが待っていた。
「将来は、もっと女子野球が広まるようにサポートをしたい。その中で、主人と一緒に治療院を兼ねた野球塾を開くのも夢かな」
夢の途中で味わった挫折。それでも、その挫折をバネにしてひたすら前を向いてきた野々村さん。その瞳の奥には、充実感に満ち溢れた光が輝いていた。
 
3年間の現役生活を経て、プロ初の女性監督となり話題を呼んだ。
その経験を生かし新たなステージで監督業に勤しんでいる。  
  引退するときの気持ちはすがすがしく、現役への未練はいっさいなかったという。「いろんな人に支えられてプレーできたので、今度は支える側として何か役に立ちたい」とリーグに残り、選手のサポート役を買って出た。
当時、アストライアは、レイアと同じグラウンドで練習していた。チーム練習でノックを打つなど、練習補佐を務め、毎日両チームの選手たちを見ていた。
そうして半年が過ぎた頃、突如、レイアの監督が辞任するという事態が起きた。思いがけぬ出来事で、後任がなかなか見つからない。そんな状況下で、ある思いが芽生えた。「誰よりも選手を見てきたのは、私。指揮官を失ったときほど、選手が不安になることはない。
「選手を救いたい一心で、“私がやります”って言っちゃったんですよね」こうして女子プロ野球界初の女性監督が誕生したのだが、坪内さんはその年のシーズンが終わるとともに監督を辞め、リーグを去った。
「自分には監督はまだ早い」と感じたからだった。「とにかく勝てませんでした。選手たちといろんな話をしたり、試行錯誤したのですが、本当に勝てない。全然思うようにいきませんでした」
辞めてどうするのか、まったく考えてはいなかった。そんなとき、ある情報が坪内さんの耳に入った。地元、静岡の大学に女子硬式野球部ができるというのだ。
「何かお役に立てそうなことはないでしょうか」気がつけばそんな電話をしていた。もちろん、監督をするつもりはなかった。ところが学校側から、「監督がまだ決まっていない」「プロでの指導経験も生かしてぜひ引き受けてくれ」と思いがけず猛アプローチを受けた。その熱意に負け、大学職員として働きながら監督に就任することが決まった。坪内さんは「こうして現在に至るわけです」と、少し照れたように笑う。
「指導者には向いていない」と感じていながら、いったいどんな心境で新天地へ飛び込んだのか。そんな疑問を問いかけると、「指導力はさておき、チームの立ち上げにあたってなにかの力になれるはずという自信はあったんです」と坪内さん。 蓋を開けてみると、1年目の部員は、わずか1人だった。平日は監督と選手が1対1で練習。しかし、野球は9人でやるスポーツだ。「これでは、せっかく入学してきたのに彼女が野球をできない」と、知人がいる埼玉のクラブチームに部員を入れ、大学がある静岡から埼玉まで毎週一緒に通うことにした。決して安易にできることではないが、「私は何度もチームの立ち上げに携わってきているから、そんなことはまったく苦ではなかった」と、坪内さんはこともなげに振り返る。
たった2人でスタートしたチームは、2年目には11人にまで増えた。それも、坪内さんが部員と一緒に毎週埼玉へ通いながら、高校回りもして選手集めを行ってきた地道な努力の成果である。
今年こそ、春と夏に行われるそれぞれの全国大学女子硬式野球選手権大会ともに準優勝し、ジャパンカップ出場の切符を手に入れる輝かしい戦績を残したものの、昨年まではまるで別のチームであるかのようにまったく勝てなかった。
転機となったのは、今春に就任した松崎裕幸総監督の存在だ。就任まもない中、総監督は衝撃的な一言を放った。
「みんな、それぞれいろんな方向を向いてしまっている。これじゃあ勝てない」
坪内さんはハッとした。そこから、部員の意識改革を行なった。ピッチャーを全員で応援してストライクをとらせる、バッターを全員で応援して打たせる。普段のキャッチボールも、互いに「ボールをここへ投げて」と呼びかけるように徹底させた。すると、彼女たちの一球に対する意識がみるみる変わった。試合中のベンチの雰囲気も次第に一体感が増していった。そんな中で勝ちとったのがジャパンカップ出場だった。
坪内さんは結婚を機に大学職員を辞め、今年の4月からは主婦業のかたわら監督を務めている。
いつまで監督を務めるか、先のことは決めてはいない。これまでもそうしてきたように、まずは目の前のことに全力投球するのが坪内さんだ。「どういう形であっても、ずっと選手をサポートする役割を担っていけたらいいなと思っています」
これからもずっと、野球とともに人生を歩んでいくことに変わりはない。
女子プロ野球 球団監督、コーチ
  
さまざまな「第二の人生」がある中で、今もなお女子プロ野球発展のために尽力しているのが、愛知ディオーネ監督の碇美穂子さんだ。
彼女はどんな思いで若き選手たちと向き合い、どんな夢を抱いているのか?   
   女子野球の名門・埼玉栄高校女子硬式野球部出身者を取材していると、誰もが口にするフレーズがある。「私たちには女子野球を広めていく責任と義務があります」
これは、女子硬式野球部・齋藤賢明監督が長年にわたって、部員に伝え続けてきた言葉だ。
2003年から年まで同校に在籍し、3年時にはキャプテンを務めていた碇美穂子さんも、やはりこの言葉を口にした。
「埼玉栄を卒業してからずっと、〝女子野球をもっと広めたい〟と思っていました。だから今、こうして監督として女子野球に関わりながら、若い選手を育てているというのは、本当に幸せなことなんです」
兵庫ディオーネ、愛知ディオーネ監督として、年間女王に輝き、シーズン優勝も達成した。
監督生活も、指導者として円熟期にさしかかりつつある。
引退を決意したとき、もう選手としては何も思い残すことはなかった。そしてこのとき、あらためて高校時代の恩師・齋藤監督の言葉がよみがえる。(私たちには女子野球を広めていく責任と義務がある・・・)
幸いにして、女子プロ野球機構からは「指導者にならないか?」という打診を受けていた。
「私はプロ1期生として、このリーグにお世話になりました。このリーグをもっと大きくするために、自分ができることは何でもしたい。そんなことを思っていたとき〝指導者にならないか?〟と打診されました。何も迷うことはありませんでした」 こうして2015年から監督としての道を歩み始めた。楽しいことや辛いこと、喜びも悲しみも感じながらがむしゃらに突き進んだ歳月だった。 「監督としての喜びは、選手が練習していたことが試合で発揮されたとき。逆に辛いのは、自分ではちゃんと伝えたつもりなのに、きちんと伝わっていなかったときかな(笑)」
プロ1期生で、高校時代からの親友である田中碧さんはすでに埼玉・叡明高校の女子硬式野球部の監督を務め、やはりプロ1期生で、花咲徳栄高校時代からよきライバルだった小久保志乃さん(元兵庫スイングスマイリーズなど)は、現在岐阜第一高校の女子硬式野球部監督だ。「碧も志乃も、私にとって誇りです。かつての仲間がみんな真剣に今でも野球と向き合っていることは、私の頑張る原動力になっています」
かつて、碇さんが埼玉栄高校グラウンドで白球を追っていた当時は女子硬式野球部を持つ高校は全国に5校しかなかった。それが今では、40校に迫る勢いとなっている。「今の私の夢は、碧や志乃の高校の卒業生たちがプロ入りすること。自分の教え子を〝碇に預けたい〟って言ってもらえるような監督になるために、もっともっと頑張ります」
指導者として、まだまだ学ぶべきことは多い。それを自覚しているからこそ「とてもやりがいがある」と、その表情は明るい。
さらなる女子野球の発展のために、碇さんはこれからも歩みを止めない―。
  
選手時代は好きなこと=仕事だった。選手でなくなった今、
それでも日本女子プロ野球機構で
育成球団レイアのヘッドコーチに就任、同時進行で、将来を模索する。
迷い、葛藤を覚えつつ、笑顔で、全力で。〝これから〟に注目したい女性だ。   
   2017年当時、25歳の川崎さんであれば、「まだまだやれる」と思っても、誰も不思議に思うことはないだろう。
しかしここでも、即決だった。試合に出る機会も減ってきて、新しい選手もどんどん増えてきた。そろそろかな、と思って」同年限りでの引退を申し出た。
あとは具体的に何をするか、だ。引退を申し入れ、リーグ職員からも進路を聞かれた。そこで、プロを選んだときの思いがよみがえってきた。
7年前、女子プロ野球のパンフレットを見ることがなければ、川崎さんは柔道整復師か、飲食業界に進むことをイメージしていた。
「将来的には、飲食をやってみたいです」と答えたが、そこは球界の功労者だ。「スタッフとして女子プロ野球リーグに残ってみたら」と推薦がもらえた。 「アットホームな、小さな居酒屋がやりたいんですよね」という将来が、いつのころからか見えてきた。「(料理を)作るのは好きです。人に振る舞ったことはないですけど、煮物系をよく作るかな」と笑う。
そんな夢をもっての引退、そして、スタッフとしての再就職だ。昨年は、球場でのグッズ販売や、ファンに提供する飲食の販売に携わった。川崎さんの将来設計を知ったうえで、スタッフとして迎え入れただけに、女子プロ野球リーグも球場前などに店舗を構えるための手続きや、仕入れの流れなども、経験できるよう配慮した。
しかし、女子野球界を引っ張ってきた1人でもある川崎さんを、販売スタッフのみで終わらせるのは、やはり物足りない。川崎さん自身も、女子プロ野球があるからこその追い風を感じていた。女子プロ野球は、試合をするだけではなく、各地域で精力的に野球教室を開いて、地域との交流や、レベルアップに対する貢献を図っている。その活動を始めた当時から現在までを知るのも川崎さんだ。
そんな川崎さんの感覚を見越してのことだろう。2019年の2月から、育成球団・レイアのコーチに、という声がかかった。飲食の夢とはまた違ったオファーではあるが、川崎さんはこの、二足のわらじを履くことを「チャンスをいただいた」と快く受け止めた。
プロでバリバリ活躍していた川崎さんにとって、この新しいチャレンジはやりがいを感じると同時に、早速、難しさにも直面した。レイアはほとんどが、高校を卒業したばかりの選手だ。彼女たちを2年程度で一人前のプロに育てて、上位チームに送り出すことが使命となる。
育成球団である以上、個々を育てるのが主目的だがチームとしての目標も立てている。難しいことではない。
〝ポジティブ〟。プロに入ってきただけに、相応の覚悟も技術もある選手たちではあるが、やはり何世代か前の〝おいこら〟ではなかなかついてこられない。 指導者サイドとしては「シュンとしないよう、持ち上げて、楽しくやらせて」と心を砕き、選手たちにはチーム目標のポジティブさを身につけてもらう。そのほうが伸びる、という時代なのだ。
ただ、選手のご機嫌とりだけでは、もちろん通用しない。そこは失礼ながら〝年の功〟である。長年のプロ経験の中で振り返れば、たとえば京都フローラの川口知哉監督などから受けた指導は、いまだに川崎さんの糧となっている。
「川口さんの一言がはまったとき、選手ががらっと変わるんです。細かい技術のことは言わないんですけど、体本来の使い方を意識して教えておられます」と、得がたい経験をしてきた。
販売スタッフと、コーチとの〝二刀流〟。いずれも、自ら求めたものではないが、周囲に請われて、「やってみよう」という気になった。そのどちらも手は抜きたくない。
しかし、どちらにどれだけ力を入れれば、両方、中途半端にならないようにできるのか。それはここからのチャレンジしだいだ。
「コーチ業は、始めたばかりなので」と、まだ自信をもって選手と接するレベルにないと、自覚している。しかし、相手は大きな夢を抱いてプロの世界に飛び込んできた選手たちだ。
彼女たちに「どこまで必要とされるコーチになれるのか」と、日々頭を巡らせている。
コーチも、レイアだからこそできることがあるはず、と考える。他チームと違い、レイア自体の試合数はプロ同士では限られている。 一方で、高校生との試合などは頻繁に組まれている。相手は高校生とはいえ、実戦の中でさらにレベルアップを図ることも大切だ。というより、それが一番大事なことである。
が、同時にプロとしての使命も果たしたい。「女子プロ野球ってこんなところだよ、という魅力を高校生たちに伝えたいんです」。
そのためにも、明るく楽しく、そして強いレイアを作っていくことが、将来的には女子野球全体の発展につながると信じている。
警察官
 
 
さまざまな「第二の人生」がある中で、女子プロ野球選手から警察官になったのが、
埼玉アストライアで4年間プレーした、熊崎愛さんだ。
彼女はどうして警察官となったのか?
そして今、現役時代をどう振り返るのか?  
  「私自身、“警察官になりたい”なんて、一度も考えたことがなかったですから(笑)」
埼玉県警の新人警察官の表情が緩んだ。泥にまみれたユニフォーム姿から、しわ一つない凛々しい制服姿へ変身した熊崎愛さんは現役時代と変わらぬ笑顔のまま続ける。
ジャパンカップ終了後、熊崎さんは、自らの第二の人生と真剣に向き合った。自分には何ができるのか?自分はこれから何をしたいのか?そんなときに頭に浮かんだのが「ある言葉」だった。
「現役時代に何度か埼玉県警のキャンペーンに呼ばれたことがありました。県内の幼稚園に行って、交通安全を教示するイベントだったんですけど、そのときに知り合った方に、〝熊崎さんは県警に向いてそうだよね〟と言われたことがあったんです」 それは、どんな意図で発せられた言葉だったのか、熊崎さんは今でもわからない。単なるその場限りの言葉だったのかもしれない。深い意味はなかったのかもしれない。それでも、第二の人生を考えていたときに、この言葉がふと熊崎さんの脳裏によみがえった。 「それでもう一度、県警の方に連絡をして相談をしたんです。この時点でもまだ、〝警察官になろう〟という思いがあったわけではありません。だけど、お話を聞いているうちに、〝新しい道に挑戦するのも楽しそうだな〟って感じたんです」 この頃、女子プロ野球からは「スタッフとして機構に残らないか?」という提案も受けていた。
「スタッフとして機構に残らせてもらうか、それとも警察官を目指すか。当時の私には二つの選択肢がありました。スタッフになれば今まで通りに仲間たちと野球に関わることができるんですけど、どうしても警察官になる道も諦めきれませんでした」 こうして熊崎さんは決断する。(1週間考えてみて、それでもまだ気持ちが変わらなければ、警察官試験を受験してみよう)
「1週間経ってみても、自分の考えが変わらなかったので、“じゃあ、挑戦してみよう”と決断できました。このときは崖から飛び降りるような心境でしたね(笑)」
少しずつ、彼女にとっての新しい扉が開き始めていた。
無事に地方公務員試験に合格した熊崎さんは年月に埼玉県警察学校への入学を決めた。
「入学が決まってからは寮生活が始まりました。起床時間も、食事の時間もすべて決められていて、行動はすべて駆け足でした。おかげで、入学後すぐに7㎏も痩せました(笑)」
日々の勉強は夜中まで続いた。夜8時から10時までは5人1組の部屋で全員が黙々と机に向かった。
警察官の心得や日々の業務に関する対処法を学び、少しずつ警官の大変さとやりがいを学んでいる手応えを感じていた。それまで経験したことのない大変な日々ではあったものの、充実感や達成感があった。 そして、翌年3月。熊崎さんは見事に卒業試験に合格。晴れて埼玉県警の警察官となったのだった。引退して初めて、私の4年間は無駄ではなかったのだと思えるようになりました。それをファンの方たちに教えてもらいました。だから私は、みなさんのことを決して忘れません。そして、みなさんの生活を守れるような警察官になって、今度は私がファンの方に恩返しをします!」
その瞬間、凛々しい制服姿の熊崎さんの表情が少しだけ柔らかくなる。それは、現役時代の彼女を彷彿させる穏やかな笑顔だった。
 
女子プロ野球の元選手であり球団代表も経験した萩原麻子さんが、警察官としての第一歩を踏み出した。
「地域の安全・安心に貢献し、住民に信頼される警察官になりたい」と意気込む
高校時代はやり投げの選手だった。
子供の頃楽しんだキャッチボールが忘れられず、高校3年生の時に女子プロ野球の入団テストを受験した。
身長171cmで身体能力の高さを評価され、2010年からプレー。
「兵庫スイングスマイリーズ」や「京都アストドリームス」で主に投手として活躍し現役引退後は「京都フローラ」で球団代表を務めた。 警察官を志したのは大阪、京都両府警が行った交通安全教室や防犯活動などに参加したのがきっかけだった。
イベントで、女性警察官らが子供達に笑顔で接する姿を見て、「野球の後は、人の役に立つ仕事をしたい」と思いが募った。 17年に大阪府警の採用試験を受験。夢を叶えた。
選手時代にファンと交流し、スポンサー探しで企業を訪問した経験から、相手の意見に耳を傾け、自分の思いを伝える大切さを知った。地域の様々な人たちと向き合う警察官の業務に「不安もあるけれど、どんな状況でも落ち着いて対応したい」と言う。
刑事や生活安全、交通といった進路希望は、まだ決めていない。
萩原さんは、「将来は警察学校で若い人たちを指導し、育てられる警察官に」と夢を語り、「署の勤務で様々な経験を積み、早く一人前になりたい」と力を込める。
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